最強の陰陽師 安倍晴明 式神を自在に操る天才!
あふれる資質
陰陽師といえば安倍晴明ーその様なイメージがある。
晴明が生まれたのは摂津国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)といわれているが、他にも讃岐国(現在の香川県)、常陸国(現在の茨城県)などの説があり、定まっていない。血統としては『竹取物語』でかぐや姫に求婚する右大臣・安倍御主人の子孫とする説もあるが、一方では狐の子だと伝承(「信太の森の葛の葉狐」の物語)もあり、こちらもはっきりしない。
しかし、その陰陽師としての資質は、子供のころから突出していたようである。
まだ安倍童子と名乗っていたころ、彼は鳥のさえずりから、その「内容」を理解することができたという。そしてあるとき、鳥たちは天皇の病気の原因は、寝殿の鬼門にある柱の礎の下で、蛇と蛙が戦っているせいだと語る。それを聞いた童子が天皇に奏上すると、確かに礎の下に蛇と蛙がいて、それを取り除いたところ天皇の病気はウソのように快方に向かったという。
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蘆屋道満と八百比丘尼の伝説
その後、晴明は幼くして賀茂忠行・保憲父子につき、陰陽道を学び始める。
修行中、忠行の供をして下京あたりにやってきたとき、前方からやってくる鬼=物の怪たちの行列にいち早く気づき、忠行に知らせたというエピソードは有名だ。これをきっかけに忠行は晴明の尋常ならざる素質を知り、自分の持つ術のすべてを教え込んだと言われている。
その後、晴明は保憲から天文道を受け継ぎ、天文博士となる。実はそれまで陰陽道の知識は、すべて賀茂氏に独占されてきた。それを血のつながりもない晴明が受け継いだということは、いかに晴明の資質が優れていたかを物語るものだ。
式神封じの術
晴明は、陰陽師が用いる占術・呪術・祭祀儀礼のすべてにおいて、達人の域に達していたといわれている。では、彼はいたいどのような力を持っていたのか。代表的なものをいくつか紹介しよう。
晴明といえば、なんといっても「式神」だ。これは主人である陰陽師の意のままに動く鬼神のことで、晴明が式神を操ったエピソードは、それこそ枚挙に暇がない。
あるとき晴明の家に、童子を二人連れた老僧が訪れてきた。聞けば、「陰陽の道を学びたい」という。晴明はとっさに「この者は自分の腕を試すためにきたのだ」と悟った。そして、二人の童子の正体を式神であると見抜き、ひそかに呪文を唱えて消してしまったのだ。
あわてたのは老僧だった。
「式神を使うのはたやすい。しかし、人の式神を消すことなど、私にはとうていできません」
そういうと、晴明に非礼を詫びたという。
またある時は、内裏に向かう少将に一羽の鳥が糞をかけたのを見て、少将にかけられた呪いを見抜いた。鳥が式神で、少将は陰陽師の呪いに打たれたのだ。
このままでは少将の命は今夜限り。そこで晴明は少将の体を抱きかかえ、呪文を唱え、祈祷を行った。すると屋敷に使いの者がきて、こう告げた。
「主人が、式神を使って殺そうとしたが、式神が逆に帰ってきて、今、式神に打たれて死んでしまいました…」
実はこの事件は、少将の妻の姉妹が妬みをもち、陰陽師を使って少将を殺そうとしたというものだった。ところがその陰陽師よりも晴明のほうがあまりにも強かった為、帰ってきた自らの式神の呪いによって命を失ってしまったのだ。
他にも、九尾の狐退治など、晴明の奇跡譚は多い。もちろん、すべて事実というわけではないし、脚色されたものが大半といっていいかもしれない。しかし、1000年が過ぎた現在でもなお、晴明の人気が衰えないことを見ても、人々をひきつける魅力が安倍晴明の中にあることは間違いないのである。
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晴明の命を奪った男
ー最大のライバル、蘆屋道満
安倍晴明 最大の宿敵が、蘆屋道満だ。
出身は播磨国岸村(現在の兵庫県加古川市)とされ、もともとは民間の陰陽師集団に属していた人物だともいう。その後、京都で晴明との呪術勝負に敗れ、晴明の弟子になるが、晴明が遣唐使として大陸に渡り、伯道上人のもとで修業をしているあいだに、晴明の妻と通じてしまう。そして晴明の帰国後、伯道上人から授かった秘伝書『金鳥玉兎集』をこっそり書き写し、「自分は夢で秘伝書を得た」と吹聴したのである。
それを聞いた晴明は、「そんなことがあるはずはない。事実ならばこの首をかけてもいい!」と主張する。そこで道満は書き写した『金鳥玉兎集』を見せ、即座に晴明の首を斬ってしまったのだ。
芦屋道満と八百比丘尼の伝説
ところが晴明の死を悟った伯道上人が急遽来朝し、バラバラに埋められていた晴明の骨を集めると、呪術によって生き返らせることに成功する。
「晴明は3年前に死んでいる。生きているというならば、わしの首を取るがよい」
と息巻く道満の前に晴明は姿を現し、その場で道満は首をはねられてしまった。
こうした伝説からもわかるように、蘆屋道満の呪術は晴明と拮抗するほどハイレベルなものだったようだ。晴明が当時の実力者である藤原道長のお抱えだったように、蘆屋道満は藤原顕光のお抱え陰陽師だった。
一説によると道満は、式神対決で晴明に敗れ、播磨に流されたともいう。
室町時代の『峰相記』には、流された道満の子孫たちは、やがて英賀・三宅方面で陰陽師の業を継いでいったと書かれている。面白いことに、晴明伝説が全国に見られるように、道満伝説もまたかなり広範囲に見ることができる。
彼がいかに民間に信仰されたかという証拠で、これもまた、悪漢とされていたが彼の腕の確かさを示すものということができるだろう。
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