歴史の闇 祟り・呪い

平安京を動かす安倍晴明の超能力

google

平安京を動かす安倍晴明の超能力

 

平安中期、多くの陰陽師が活躍したが、そのなかで最強の超能力を発揮したのは安倍 晴明だった。晴明の不思議な力に、人びとは怪事件が起こったかのようにおどろき、畏怖した。

 

  晴明は延喜二十一年(九二一)に生まれた。父は益材というが、出生地は讃岐(香川 県)、摂津(大阪府)、常陸(茨城県)など諸説があってはっきりしない。晴明は幼いころ から陰陽師の賀茂忠行の弟子となり、昼となく夜となく修行をつづけ、術を磨いた。『今 昔物語集』は、幼いころのつぎのような出来事を伝えている。 

 

ある夜、師の忠行が下京あたりへ出かけるというので、晴明は供をし、車のあとから 歩いていった。そのうち、忠行は車のなかで寝入ってしまった。

 

晴明がふと前方を見ると、なんともいえぬ恐ろしい鬼どもが近づいてくる。晴明はそれを見ておどろき、急いで車に近寄ると、忠行を起こし、「前から鬼どもが歩いてきます」 と告げた。

 

忠行は目をさまし、近づいてくる鬼どもを見た。それとともに素早く術を用い、わが身ばかりか、供の者たちまでを隠して、なにごともなく通りすぎたのである。

 

幼い晴明の目に鬼が見えたというのは、尋常ではない。それからというもの、忠行は晴 明を手放しがたく思い、瓶の水を別の器に移すようにして、晴明に陰陽道のすべてを教え た。このため、晴明はついに陰陽道をきわめ、公私ともに重く用いられるようになった。 陰陽師や呪術師たちは、一般的には修行を重ねて術を身につけたが、晴明はさほど修行 をしていない幼いころ、すでに夜行する鬼たちを見たというのだから、抜群の素質をもっ ていた。

晴明の呪術についてはさまざま伝えられるが、『古今著聞集』は晴明が瓜のなかに毒気 があることを見抜いた、という出来事を紹介している。

 

 関白藤原道長が物忌で、屋敷にとじこもっていたときのことである。解脱寺の観修僧 ただあき きんろう 正、安倍晴明、医師の丹波忠明、武士の源頼光がともに参籠していた。 そのさなかの五月一日、南都(奈良県)から早生の瓜を献上してきた。しかし「物忌をしているというのに、献上品を受け入れるのはいかがなものだろうか」 という者がいたため、晴明が占ってみた。すると、瓜の一つに毒気があることがわかった。晴明はそれを取り出して、

「加持祈稿をすれば、毒気が明らかになります」

という。道長は、さっそく観修に命じ、加持祈薦をさせた。

観修がしばらく読経をしていると、だれが手を触れたわけでもないのに、瓜が動き出し たのである。道長はそれを見て、医師の忠明に「毒気を取り除け」と命じた。

忠明は瓜を手に取り、しげしげと見まわしたあと、やおら針を二か所に突き立てた。す ると不思議なことに、瓜はぴたりと動かなくなったのである。

つぎに頼光が刀を抜き、その瓜を割った。瓜のなかには、小さな蛇がまるくなって入 っていたが、なんと忠明が突き差した針は蛇の両目を貫いている。それに、頼光もなにげ なく瓜を割ったように見えたが、正確に蛇の首を切断していた。 『古今著聞集』はこの出来事を記したあと、「名を得た人びとの振舞いは、このようなものだったろう」と述べている。名人と称される人は、いずれもすぐれた眼力をもっているということだが、安倍晴明も陰陽道の名人だし、その占験力も抜群とされていた。

陰陽師の怪事件 

晴明は花山天皇の前世を見通し、医師が治せなかっ大皇の病を平癒させた、という話もある。 花山天皇は永観二年(九八四)、十七歳で即位したが、右大臣藤原道兼に謀られ、不本意ながら在位わずか一年十か月で退位を余儀なくされた。 『古事談』によると、花山天皇がまだ在位中、頭痛に悩まされ、とくに雨の日はひどく苦 しんだ。いくら医師が治療をしても、さっぱり効き目がない。

見かねた晴明は、天皇につぎのように進言した。 おおみね 「花山天皇は前世で尊い行者でした。大峰山(奈良県吉野郡)で修行中、ある宿で入滅されましたが、前世での修行の徳によってこの世では天皇に生まれました。

 しかし、前世の お体の髑髏が岩と岩とのあいだにはさまって、雨が降ると水で岩がふくらみ、髑髏が締め つけられて、今生でこのように痛むのです。ですから、いくら治療をしても効き目はあり ません。髑髏を岩のあいだから取り出し、広い場所に置けば必ず治癒します」

晴明はそのうえ、髑髏がはさまっている場所を告げた。天皇が人を遣わし、調べさせた ところ、晴明がいった場所に髑髏があった。さっそくそれを取り出し、広い場所へ置くと、天皇の頭が痛むことはなくなった。

晴明は先に述べたように、藤原道長に重用されたが、『宇治拾遺物語』は、晴明が道長 の危機を救った出来事を記している。

法成寺が建立されたのは寛仁四年(一〇二〇)のことだが、道長はそれ以来、毎日の ように参拝していた。道長が飼っていた白い犬も、お供をするのがつねだった。

ある日、いつものように道長が法成寺の門を入ろうとすると、その白い犬が道長の前へ まわり、しきりに吠えた。不審を抱いて道長は車から降りて入ろうとしたが、犬は衣の端 をくわえ、引きとめようとする。

「なにかあるにちがいない」

道長はそう思い、晴明を呼び寄せた。晴明は道長の話を聞き、しばらくのあいだ占い、 こういった。

 「道長様を呪詛する者がいて、道に厭物を埋めてあります。それを踏み越えれば、たいへんなことになったでしょう。犬は通力をもっているので、それを告げたのです」

厭物というのは、人に害をあたえる呪物である。道長は晴明から埋めてある場所を聞くと、さっそく従者に掘らせた。

道を掘り進めると、地面から五尺(約一・五メートル)ほどのところに、土器二つをあわせ、黄色の紙益で十文字にしばったものが出てきた。紙捻をほどいてみると、なかには

なにもなく、土器の底に朱で一つの文字を書いてあるだけだった。奇妙なものである。道長が「これはなんだ」とたずねると、晴明は、 「極秘の呪術で、知っているのはわたしぐらいのものです。あるいは道摩法師の仕業かも しれません。呪詛した者を調べてみましょう」

といい、懐から紙を取り出した。これを鳥のかたちに結び、呪文を唱えて空へ放り投げ たのである。すると、紙の鳥はたちまち白鷺となり、南へ飛んでいった。 道長は鳥の落ち着いたところが呪詛した者の住まいと聞き、従者に白鷺のあとを追わせた。

「あの鳥の落ち着き先を見てまいれ」

従者が走っていくと、白鷺は六条坊門万里小路あたりの古びた家に落ちた。家を捜査し たところ、一人の老僧がいるだけである。従者はその老僧を捕えて縛りあげ、引き立てて きた。老僧は道摩法師とわかったが、呪詛した理由を問うと、 「堀川左大臣藤原顕光公の命令で、やむなく術を仕かけました」 あきみつ

と白状したのである。道長と対立する顕光が道摩法師を使い、亡き者にしようとしたわけだ。しかし、道長は、「本来なら流罪にすべきなのだが、法師は利用されたにすぎぬ」 といって、道摩法師を本国の播磨(兵庫県南西部)へ追い返した。堀川左大臣顕光は道長との権力争いに敗れ、治安元年(一〇二一)、七十八歳で病死す るが、死後は怨霊となって祟る。

かんこう だが、不思議なのは、晴明が術を使い、道長を呪詛した者をつきとめる逸話である。じ つは、晴明は寛弘二年(一〇〇五)、八十四歳で死去しているから、法成寺が建立された

 

寛仁四年といえば死後十五年で、すでにこの世にはいない。 おそらく道長と晴明の深いかかわりからすると、こうした事件はいくども起こったにち がいなく、そこからこの逸話がつくられたとも考えられる。あるいは、天才的な陰陽師の ことだから、一度死んだ晴明が道長の危機を知り、あの世から戻ってきたのだろうか。

 

いずれにせよ、この時代の天皇や公卿たちの最大の関心事は、運命の予定だった。だか らこそ、安倍晴明のように神秘的な超能力を発揮する陰陽師は尊敬され、政治にまで強い 影響力を発揮したのである。安倍晴明は、いわば平安京の闇をつかさどっていたといってよい。

-歴史の闇, 祟り・呪い
-, , , , , , , , , , , , , , , , ,