歴史の闇

蘆屋道満と八百比丘尼の伝説

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蘆屋道満と八百比丘尼の伝説

道満のイメージとしては、草深い田舎から出てきて、ゴツゴツと力任せに術をほどこし、おのれの験力、呪力を誇示するといった野蛮で無骨なイメージがつきまとう。
対照的にライバルと言われる安倍晴明は、みやびやかな衣冠束帯姿で、優雅に術を施すイメージで人気も高い。

『輪廻物語』の道満は、道満を善玉として描いた浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』の強い影響を受けて書かれているため、道満は悪辣であっても、貧しいイメージはない。
しかし『芦屋道満大内鑑』以前の道満は、高貴な晴明とは対照的なイメージで描かれる。

例えば『??抄』などでは、破れ笠にぼろ蓑という異形の風体で晴明の前に現れた事になっている。
また、その最後も晴明に首をはねられて死んだり、播磨国に流罪となって死ぬなど、おおむね悲惨な描かれ方をしている。

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では、この芦屋道満とは、そもそも何者なのか?
それを解く鍵が、「八百比丘尼」伝説にある。

八百比丘尼とは、ある時、知らずに人魚の肉を食べてしまったという若狭国の漁師の娘の通称である。
古来、人魚の肉は不老不死の霊薬と見なされていた。その肉を食べたため、娘は1千年の寿命を得る事になった。その後、娘は尼となって諸国を遍歴したが、800歳の時、残り200歳分の寿命を若狭の領主に譲り、同国小浜町の空印寺の奥の洞窟で入定した。800歳で入定したので、その名を八百比丘尼と呼ぶのだが、彼女は入定のきわまで、少女時代の姿のままだったという。

これが「八百比丘尼」伝説である。

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この八百比丘尼だが、彼女は、芸能や占い、呪術をなりわいとして各地を遍歴する漂泊の巫女などの遊芸者のイメージが結実して生み出された人物と考えられている。
しかも、この八百比丘尼の父親を、若狭国西津村大字小松原(わかさのくににしつむらおおあざこまつばら)生まれの漁師「道満」とする伝承が存在するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中世には「散所者」さんじょもの と呼ばれる漂泊の呪術的芸能者がいた。
一口に散所者と言っても、そこで行われているなりわいは多様で、下級の陰陽師や経文読みなどは「声聞師」しょうもんじ と呼ばれ、猿楽・あるき白拍子・あるき御子(巫女)・金たたき・鉢たたき・あるき横行・猿飼の7種の芸能に携わるものは、「七道者」しちどうもの と呼ばれた。

八百比丘尼は、そのうちの「あるき白拍子」や「あるき御子」を原像としている。
注目していただきたいのが、舞などの芸能や神降ろし・託宣などの呪術、また売春などをなりわいとして各地を渡り歩いた「あるき白拍子」や「あるき御子」と、下級の陰陽師が同じ散所者に属していたという事実である。

両者には伝説を共有する素地があった。八百比丘尼の父親を道満する伝承は、まさにそれを物語るものとして注目に値するのだが、道満には、さらに「秦」はた 姓との因縁もある。

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秦氏は朝鮮半島から渡来した新羅系の渡来民で大陸の進んだ知識や信仰を握っていた古代以来の有力氏族として知られている。平安前期の陰陽寮の長官などにも秦氏の名が確認出来るし、晴明伝説と因縁深い稲荷社も秦氏の創建と伝えられている。

さて、八百比丘尼が入定したと伝えられる空印寺の縁起では、八百比丘尼の父が「秦道満 はたのどうまん」という名で登場する。

晴明に代表される宮廷陰陽道に対し、世間には、より庶民的・通俗的な呪術とつかさどる下級陰陽道が存在した。その代表が道満であり、だからこそ晴明にまつわる伝説や創作では、道満が晴明のかたき役として登場するのである。

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蘆屋道満は、なぜ晴明の術に敗れたのか

平安中期のことである。安倍晴明は宮廷の陰陽師だったが、晴明が活躍していたのと同じころ、蘆屋道満という民間の陰陽師がいた。生没年は不詳で謎の多い人物だが、生国は 播磨国(兵庫県南西部)だという。

あるとき、晴明の評判を耳にした道満は、術くらべを挑むため、都へやってきた。道満 は大柑子(夏ミカン)を加持し、殿原(身分の高い男)や中間(従者)に変えることがで きたし、木の枝を加持して太刀や長刀にすることもできた。やがて道満は、そうした者たちをしたがえて、晴明を訪ねてきたのである。

一方、晴明は占いによって、すでに二十日も前から道満が上洛してくることを知ってい た。だから道満が訪ねてきても、少しもおどろかなかった。道満から術くらべを挑まれ、 だいり 内裏の白洲で優劣を決することにした。もし、どちらが負けても、勝った者の弟子となることを約束しあった。

 当日、天皇は大柑子を十六個入れた長持を運ばせ、 「このなかになにが入っているか。それを占うのだ」 と命した。道満は、長持を見るなり、

「十六個の大柑子です」 と答えた。しかし、晴明はひそかに加持をしたうえで、こう答えたのである。 「風が十六匹入っています」

大臣や公卿たちは中身を知っているから、「晴明を勝たせてやりたい」と思うものの、 晴明の答えに失望してしまった。もはや道満の勝ちが明らかである。大臣たちはそのた め、長持の蓋を取るのをためらっていた。 「早く蓋を開けてください」

道満がしびれを切らしていうと、晴明も同じように促す。大臣たちは、観念して長持の 蓋を取った。すると、どうしたことか、なかから鼠が飛び出し、あたりを走りまわった。 かぞえてみると、風は十六匹だった。

晴明が勝ったので、大臣たちはおどろき、ほっと胸をなでおろした。道満は負けため、約束どおり、晴明の弟子となった。 これは『箇墓抄』などに伝えられている話だが、道満は晴明に敗れたとはいえ、当時は ほきしよう 有数の陰陽師として知られていた。

 もともと陰陽師は、中国から伝えられた陰陽五行説によって、天体観測や暦の作成、 時刻の測定、吉凶の占いなどに従事した。陰陽五行説は、天地のあいだで循環する木、 火、土、金、水の五つの元気(五行)を陰と陽の二気に配し、その消長から天地の異変、 災祥、人事の吉凶を説く理論である。 

ところが、平安時代になると、陰陽師はもっぱら吉凶の占いが専門であるかのようにな った。さらに、悪霊や妖怪などを退散させるほか、人を呪い殺したり、呪いを解除するこ とができる呪術師とみなされた。

とくにこの時代、人びとはなにかというと、吉か凶かの占いで行動していただけに、晴 明と道満との対決は平安京の話題をさらったにちがいない。道満が負けたが、それで終わ ったわけではなかった。

その後、晴明は陰陽道をきわめるために唐士へ出かけていく。 妻の利花と弟子になった 道満が留守を預かった。

晴明は唐で伯道上人の弟子となり、修行に励んだ。伯道の命令で三年三か月も置を刈り つづけたが、伯道は文殊菩薩の像をつくり、萱葺きの寺院を建てた。

ところが、晴明が留守のうち、道満は利花にいい寄り、密通してしまった。そればかり か、晴明が秘蔵していたト占の書『金烏玉兎集』を無断で写し取ったのである。やがて十 年後、晴明は唐から帰国したが、道満は利花の手を借り、殺してしまった。

一方、唐では伯道が不吉な予感をおぼえ、術を用いて占ってみたところ、晴明の死相が 見えた。そこで伯道は急いで日本へ渡り、晴明をたずね歩き、彼の死を知ったのである。

伯道は晴明の塚を訪れ、掘ってみた。遺骨はばらばらになっていたが、一つずつ拾い集 しようかつぞくめい めると、すべてが揃った。伯道が生活続命の法を執り行なうと、晴明はすぐ蘇生した。

やがて伯道は道満を訪れ、晴明と会ったことを告げる。道満は「なにを愚かなことをい うのか」と思い、「晴明は、もう三年も前に死にました。それなのに会ったなんて。夢でも見ているのでは ありませぬか。もし、晴明が本当に生きているのなら、わたしの首を差し上げましょう」とまでいったのである。

 道満は自分で晴明を殺したのだから、自信満々だった。 それを聞いた伯道は、晴明を呼び寄せた。道満は晴明の姿を見ておどろいたが、もう遅い。道満は晴明に首を斬られてしまった。 結局のところ、道満はついに晴明には勝てなかったが、それにしても不思議なのは、唐 からやってきた伯道が遺骨を拾い集め、死んだはずの晴明を蘇生させたことである。別の ところで、歌人の西行が人造人間をつくったという話を紹介するが、当時は本当にそうしたことが行なわれていたのだろうか。 事実なら奇怪なことだし、超能力を用いたとしか思われない。ただ、古代では人間は死ぬけれども、蘇ることもできるのだと信じられていた。晴明が蘇生したというのは、そう した死生観にもとづく物語だったにちがいない。 蘆屋道満は、晴明の引立て役として利用 されたのである。

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