歴史の闇 祟り・呪い

平将門の首塚の謎

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平将門の首塚の謎

東京都千代田区大手町1丁目、三井生命ビルや三井物産ビルなど大きなビルが立ち並ぶ一角に、赤い幟(のぼり)と鳥居が見える。きわめて狭いその空間の奥には石碑が立ち、苔むした石灯籠もおかれている。
ここは神田明神発祥の地であり、承平天慶(しょうへいてんぎょう)の乱で憤死した平将門の首塚のあったところである。
今を去ること1千年、939年(天慶2)11月、将門は常陸国府を襲撃した。さらに、翌月11日には下野国府を、15日には上野国府を攻略した。
その上野国府を襲ったときのことである。『将門記』にはこう書かれている。政庁に一人の巫女があらわれ、「私は八幡大菩薩の使いです」と言って、将門に次のような神託を告げたのである。
「われの位を平将門に授け奉る。その文書は菅原朝臣(菅原道真)の霊魂が書くであろう」
将門は歓喜し、「新皇」と自称した。

将門は身長七尺余(約2.1メートル)、頑強な体をもち、ある記述には、左の目には瞳が2つあり、その目で睨むと飛ぶ鳥すら落ちたという。
その真偽はともかく、こうした容貌魁偉な将門の反乱である。朝廷は恐れた。そこで、朝廷は延暦寺に依頼し、将門を打ち破るための祈禱を行った。
940年正月から2月にかけて、何人もの高名な祈禱師によって繰り返し行われたが、そのうちの一人、浄蔵による祈禱では不思議なことが起きたことが記録されている。
浄蔵の祈禱中、燈明の上に将門の姿が映ったのである。しかも、その姿は弓矢を射られたものだった。人々は驚いた。
しかし、それはまさしく、祈禱の成功、つまり将門を倒せることを意味していたのである。
事実、将門の乱は平定された。同年2月14日、将門の馬が逆風に足をとられ、将門は鏑矢にあたり滅び去った。死体は、7つに引き裂かれ、頸は、京都に送られ獄門にかけられた。

また、将門首塚の由来には、「七条河原にさらされた将門の首は夜になるとカッと目を見開いたり、ケタケタ笑い出した。
そして、自らの胴体を求めていた首は、3日後白光を放ち東国へと飛び立ち、武州豊島郡芝崎村(冒頭の千代田区大手町)に落ちたという。大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これが後に将門の首塚と語り伝えられている」とある。


その後もしばしば将門の怨霊が祟りをなすため徳治2年(1307)に真教上人が、蓮阿弥陀仏という戒名を追贈し塚前に板石塔婆を建てて日輪寺で供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったと伝えられている。
さて、神田明神が移された後も首塚はずっと守られ続けてきたが、1923年(大正12)9月1日、関東大震災後、大蔵省仮庁舎建設の際に壊されることになった。
当然ながら、この文明の時代にいまさら将門の怨霊でもないものだ と思う者も多くいた。そして、かつての首塚の上には大蔵省の建物が延長された。
ところが、それからすぐに奇怪なことが起きた。大蔵省の大臣以下数十人の工事関係者が相次いで死亡するという怪異が起こった。また終戦直後に進駐軍のモータープールを建設の際、整地に当たったブルドーザーが将門首塚の石標に当たって横転、運転手が投げ出されて間もなく死亡するといった事故も起きている。
実際、大蔵省は慰霊祭を主催した。それでも足らず、神田明神の祭りの際には、神輿が大蔵省までやってくるようになった。そして、しばらくの間、大蔵省では神輿がやってくると御神酒を捧げるのが恒例になったのだという。

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平将門の首はなぜ飛んだのか

都で晒しものになっていた首が、関東をめざして空を飛ぶ。『平治物語」などでは天 ぎょう 慶三年(九四〇)、そうした奇怪な事件が起こり、人びとを恐怖させた、と伝えている。

その首とは、平将門の首である。将門の生年は不詳だが、下総の猿島、豊田二郡(茨 城県西部)に勢力をもつ鎮守府将軍平良持の次男として生まれた。良持は桓武天皇の曾孫 高望王の子で、兄に国香、良兼、弟に良文、良正らがいた。

将門は父の死後、上洛して摂政藤原忠平に仕え、検非違使になることを求めたが、後押 ししてくれる有力者がいない。このため、それがかなわず、位の低い公家たちからも 「東夷東国の野蛮人)」と侮られる始末だった。 

そのうえ、将門が都に滞在しているうちに、伯父の国香らに領地を押領されるという事 件が起きた。 将門は急いで帰国し、国香や良兼らに土地の返還を迫ったものの、伯父たちは、逆に将門を襲撃するなど、亡き者にしようと画策したのである。

承平五年(九三五)、将門は報復の戦いを挑む。源護(国香の子貞盛の男)の三人 の息子を討ち、各地に火を放ったが、『将門記』によると、「男も女も火のため薪となる」 という悲惨さだった。国香も攻められ、その火のなかで自刃して果てた。

これが将門の乱の発端だが、もともとは領地争いだったのに、やがて周辺の豪族を巻き 込み、大乱に発展していく。こうして天慶三年まで、六年間もつづくのだ

敗れた源護は怨みに思い、将門を朝廷に訴えたため、将門は召喚される。将門は京へ しょうかん のぼり、朝廷に反抗する意志のないことを表明したが、帰国した承平七年八月、良兼に襲 われ、妻子を奪われてしまった。しかし、将門は軍勢をたて直し、良兼を攻めた。

こうした私闘がくりかえされているうち、天慶元年(九三八)に武蔵国司と郡司とのあ かねもと いだで紛争が起こる。将門はこれに介入したため、武蔵介の源経基が朝廷に「将門が謀叛 ひたち を企てている」と訴え出た。将門はそれを怒り、翌年十一月、常陸(茨城県)の国府を攻 撃し、焼き払ってしまった。

これは明らかに、中央政府にたいする反乱である。朝廷としても、将門を謀叛人として扱わざるを得ない。

そうなっては、将門も後戻りはできない。各地の国府を攻め、坂東八か国(相模、武 蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房)を制圧。平安京の天皇にたいして、みずから 「新皇」と称したのである。

朝廷は将門追討軍を派遣したが、その軍勢が到着する前、国香の子貞盛、下野押領使の ひできと 藤原秀郷らは四千の軍勢をひきいて、将門を奇襲した。天慶三年二月十四日、激しい攻防 戦のなかで、 将門は矢に射貫かれて討死した。

ところで、将門の乱が起こるころ、平安京ではさまざまな怪異がつづいていた。真夏だ というのに大雪が降ったし、黄色の蝶が大きな群れをなして飛んだこともある。蝶の乱舞 は兵革(戦争)の兆しと噂され、人びとは恐れおののいた。

当時、平安京の人びとにとって、東国は辺境の地であり、そこで暴れまわる将門は、あ たかも妖術使いのように思えた。それだけに「将門が叛逆した」との知らせが平安京にとどくと、さまざまな噂が乱れとんだ。たとえば、

「将門の体は鉄でできているため、矢が当たっても傷つかない」 「妖術を使うし、七人の影武者を操っているので、どれが将門本人なのかわからない。将 門が勝ちつづけているのは、そのせいだ」

などと、まことしやかにいわれ、恐怖したのである。

みよしきよゆき 『古事談』によると、その間にも不思議なことがあった。 将門が朝廷に背いたのちの天慶三年一月二十二日、文人で学者だった三善清行の子で、 浄蔵が延暦寺の首楞厳院で三十七日間、将門を降伏させるための祈願を行った。 

そのあいだに、弓矢を身につけた将門の姿が、ぼーっと灯火の皿のうえに浮かび上がっ た。浄蔵にしたがう僧や弟子たちは、それを見ておどろき、怪しんでいると、壇のなかか ら鏑矢の音が発し、それは東へ飛んでいったように聞こえた。すると、浄蔵は、 「将門はすでに討たれました」といった。

 その後、公卿が鎮護国家のため、仁王会を催したとき、浄蔵は待賢門(大内裏にある外 郭十二門の一つ)の導師をつとめた。この日、平安京では「将門の一味がたったいま、入 洛してきた」との噂で大騒ぎになった。浄蔵は落ち着きはらって、

「将門の首級が、ただいま持参されるでしょう」 といった。これを聞いて、恐怖のために死んだようになっていた宮廷の人びとは、たち まち安心し、生き返ったようになった。果たして、浄蔵の言葉どおり、将門の首級が平安京にとどいた。

 将門の首が到着したのは四月二十五日。押領使の藤原秀郷らが運んできたのだが、将門 の首は東洞院近くの木に晒されたのである。

ところが不思議にも、将門の首は三か月たっても色が変わらず、目は生きているかのよ うに輝いていた。しかも、夜になると、その首は歯がみしながら叫んだ。 「わが体、いずこにある。ここにきたれ、首をつないで一戦せん」 ひといくさ

平安京の人びとは怖いもの見たさに出かけ、不気味な首を見たり、 恐ろしげな叫び声を 聞いておののいたという。

さらに奇怪なことに、ある夜、将門の首は胴体を求め、唸りを発しながら関東へ飛ん だ。しかし、途中で力尽きたのか、武蔵国芝崎村に落ち、夜ごとに怪光を放った。このた め、土地の人びとが畏懼し、落ちた首を手厚く埋葬した。これがいまも大手町(東京都千代田区)に残る将門首塚とされる。

そのほか、「将門は怨霊となって洪水を起こした」とか「疫病を流行らせるなどして った」と伝えられるが、将門の怨みはそれほど強かった。

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