歴史の闇

天草四郎は豊臣秀頼の隠し子だった?

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天草四郎は豊臣秀頼の隠し子だった?

天草四郎時貞と豊臣家をつなぐ ”大坂夏の陣” 後の逃亡劇

1637年、過酷な取り立てに耐えかねた肥前・島原の領民たちが蜂起した。後に言う島原の乱である。総大将は17歳の天草四郎だったが、この乱にはもうひとつの真実が隠されていた。

 話は1615年に遡る。大坂夏の陣で秀頼とその母・淀殿は自害したと言われるが、実は落城寸前、真田幸村が二人を連れて城を脱出。熊本城まで落ち延びていた。豊臣氏滅亡後に流行った「花のような秀頼様を鬼のような真田が連れて・・・」という童歌がその証拠だ。やがて秀頼は側室との間に子を設ける。1621年2月28日誕生したその子こそ豊臣秀綱・・・後の天草四郎時貞である。徳川方に見つからないよう、益田甚兵衛の子として育てられた四郎は、豊臣家のカリスマ性とキリスト教の精神から”神童”と呼ばれるようになる。

 一方、天草・島原地方を治めていた松倉重政と寺沢広高は、豊臣家の血筋を引く者がいるという噂を耳にしていた。彼らが禁教を理由に重税を課していのは、この地に隠れている秀頼の遺児を引きずり出すためだったのだ。圧政に耐えかねた豊臣の遺児たちは、ついに四郎を奉じ、領民や浪人を引き入れて反乱を起こす。その軍資金となったのは、かつて秀吉が息子・秀頼のために遺し、幸村が秀頼とともに大阪城から持ち出した莫大な黄金であったという。

 

ローマカトリックも気付いていた「島原の乱」=「豊臣家VS徳川家」

 幕府が総勢12万もの大軍で包囲したのは、秀頼の遺児が総大将だということを知ったため、そして原城にある膨大な黄金を手に入れるためである。幕府軍を指揮した老中・松平信綱は兵糧攻めやオランダ船による砲撃を実施。機が熟したところで総攻撃のに転じ、四郎をはじめ反乱軍をことごとく殺害したという。こうして豊臣の血筋は完全に絶えたのである。

 これはど大規模な反乱にもかかわらず、島原の乱の死者はローマカトリックから殉教者として認められていない。乱の参加者に正式な資格を持つ神父がいなかったのが表向きの理由だが、実のところローマ教会は、この戦いの本質が豊臣と徳川の争いだということを知っていたのではないだろうか。

 

天草四郎時貞 生年不明~1638年4月12日

江戸時代初期のキリシタン。本名は益田四郎時貞。

1637年(寛永14年)に起きた農民反乱、島原の乱の指導者に弱冠17歳で擁立され、原城に籠城する。十字架を掲げて戦闘を指揮し、幕府軍を何度も追い払って反乱軍を盛り上げたものの、最後は総攻撃をかけられ、命を失った。現在、原城跡には四郎の銅像が建てられている。

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