不連続
"オシラサマ"
お告げ殺人の怪
オシラサマとは?
東北地方に伝わる民俗のひとつ、 オシラサマ信仰。 30センチほどの桑の一対の棒で、 男女や馬の顔をかたどったものをご神体とする。 その信仰について、いまだ多くの謎を残しているが、 祀り方が悪いと祟られるともいわれ、 取扱いの非常に難しい神さまとしてしられている。
東北地方で今なお残る民間信仰が引き起こした悲劇
昭和22年7月3日夜、T村のK杉という集落で世にも残虐な殺人事件が発生した。K杉の集落 は市街地から離れた杉林に囲まれた寒村で、その時の世帯数はわずかに3。
この事件は端緒に過ぎなかった。この恐るべき残虐殺人は、歪んだ”オシラサマ”信仰が引き起 こした事件であり、驚くべきことにこの事件の前後には、まるで連鎖反応を起こしたかのように
*奇奇怪怪な事件が数件発生していた。
そして、事件から数年後、T村のK杉の集落はこの世から消滅した T村周辺で発生した奇怪な不連続オシラサマ殺人事件”を追ってみた(地域・人物名などは仮名)。
顔面の肉や骨がちぎれ飛ぶ地獄絵図
昭和27年7月3日。青森県丁村の中心部から東南へ1里半(約6キロ)の山奥。深い杉木立に囲 まれた小盆地にひっそりと寄り添った3軒の農家があった。
K杉の集落である。
そのうちの軒、神亀次郎(60)の家には、当主の亀次郎のほか、亀次郎の妻トメ(38)、亀次郎 の妹でたまたま泊まり合わせていたタキ(50)、さらに次男定吉(2)、その嫁キミ(31)、定吉の妹 キク(23)、神家の使用人カズオ (18)が寝ていた。
定吉より嫁のキミの方が年上なのは、長男が戦争で戦死しており、その長男の嫁として家に嫁 いでいたキミが、そのまま弟の定吉に嫁いだからだ。気丈なキミが気弱な定吉を助け、夫婦仲は すこぶるよかったという。
事件はこの定吉・キミ夫婦の寝室で起きた。
深夜11時半頃のことだった。水田の草取りですっかり疲れきった夫婦だったが、まず妻のキミ の方が枕元をミシミシ歩く不審な気配に目を覚ました。目をこすりながら寝室の戸口を見上げる と、ほのかな星明かりに浮かび上がったのは身の丈「五尺六寸か七寸」(170センチ前後)の当時の 青森では大柄な男の姿だった。
「アヤー、アヤッ!」
驚いたキミはそう叫ぶと、傍に寝ていた定吉の身体をあわてて揺り動かした。 定吉が目を覚ま してゆっくりと半身を起こしたところで、男はツカツカと定吉の脇まで歩み寄り、やにわに定吉 の体に馬乗りになった。そして、懐から長さ30センチはあろうかという短刀を取り出すと、いき なり心臓部めがけてブスリと突き立てた。短刀は一度で定吉の左心耳を貫通し、定吉はほどなく 絶命した。
キミはあまりの突然の出来事に「アッ」と小さく叫んで目を覆ったが、そ のキミの頭を男は金槌で殴りつけた。何発も殴りつけたようだが、キミ は最初の一撃で意識不明。男はその後、血を噴き出してのたうちまわる 定吉の頭と顔を金槌で何十回もめった打ちにした。顔の肉や骨がちぎれ 飛んだその光景は、さながら地獄絵図だったという。
夫婦の寝室の隣では、タキとカズオが寝合わせていた。そこにもう一 人白マスクをして棒を手にした小柄な男が見張りに入り、「騒ぐな」とタ キを一喝した。亀次郎夫婦の寝室からトメも起きだしてきたが、トメも 「騒ぐと殺すぞ」と脅され、ベタベタと廊下に座り込んでしまった。
一家が恐怖のどん底に叩き込まれて放心していた時、2人の男は寝室
から居間を通り、馬小屋に抜け、馬を引き出して逃げていった。トメがおそるおそる夫婦の寝室をのぞくと、定吉は虫の息で手足をヒクヒク痙攣させていた。キミは血だらけで布団の上でのたうちまわっていたという。
この時、ようやく亀次郎が現れ、定吉を介抱したが、すでに絶命していた。 夜明けを待って、キ ミを荷馬車に乗せ、丁村の診療所に担ぎこんでから、駐在所に事件を申告した。
以上が難を逃れた4人の証言による事件の概要である。だが奇妙なことに、物品の被害は犯人 が逃げていったときに用いた馬だけで、その馬も翌日、自力でどこぞから家まで戻ってきたという。
犯人が夢の中で受けた恐るべき”殺人のお告げ”
当初、容疑者とされたのは、定吉の妹キクの前夫(30)だった。 実はキクは翌日別の新しい夫の もとへ嫁入りする予定だったが、この前夫は幾度もキクに復縁を迫っていたのだ。だが、この前 夫の犯行当夜のアリバイがほどなく成立した。
犯人の行方がわからないまま7ヶ月余りの歳月が経過した。そして、意外な犯人が警察に逮捕された。
定吉の実父、亀次郎である。
亀次郎は熱心なオシラサマ”の信者だった。 オシラサマとは東北から関東にいたる地域で広く 信じられている土俗信仰(詳細は後述)で、特に青森の津軽地方では熱心に拝まれていた。
犯行が起こるしばらく前に亀次郎は、こんなオシラサマのお告げを夢の中で受けていた。
” 定吉が死ななければ、おまえは定吉に殺されるぞ” また事件の当日、深夜だったにもかかわらず、亀次郎は野良着をちゃんと着込んでいた。また 亀次郎の寝床には就寝中であったはずなのに、なぜか土砂が落ちていた。さらに亀次郎の着てい 野良着についていた血痕は、粉塵状に飛び散っており、心臓部を刺した時に噴き出したものだ った。
亀次郎は、もともと定 吉夫婦とはそりが合わな かった。特に定吉の嫁の キミを嫌っていた。キミ は自己主張が強く、亀次 郎の言いつけに従わなか った。それどころか、定 吉を尻の下にいて、青森市内に夫婦2人だけで引っ越すことを計画していた。亀次郎は「引越しを理由にして、キミが自 分の財産分与を狙っているのではないか」と疑心暗鬼に陥っていたという。
そんな時オシラサマから「定吉殺害のお告げ」を受けた。 オシラサマのお告げは絶対だった。たとえ肉親であろうと、かわいい息子であろうともオシラサマの命じるままに行動した。
「それに定吉が死ねば、キミもこの家にいられなくなる。首尾よく追い出せると思いました。家 のことは、定吉の妹のキクに従順な婿をとればいいんです。ところが、キクの縁談もキミが主導 してまとめてしまったので、その前に何とかするしかない、と思いました」
警察で亀次郎はそんな趣旨の自供をしている。 犯行は、亀次郎の単独犯だった。しかし、不審なのは、なぜ他の4人の家族が「犯人は2人組だ った 」と強く主張したかということだ。
実は亀次郎の逮捕後も、残された家族は亀次郎の無罪を訴え続け、「犯人はよそ者の2人組だ」
と言い続けていた。
このため、特に亀次郎の妻タキには、始終共犯の疑いがかけられることとなったが、結局、タ キが逮捕されることはなかった。実際、犯人2人組説や、尺7寸の大柄な男説は、事件直後の 混乱している家族を、亀次郎が誘導してすり込んだものである疑いのほうが強くなった。
ちなみに公判で亀次郎は自供を翻し、無罪を主張。一家の支えとなっていた定吉は「かわいい存在でこそあれ間違っても殺害するはずはない」と証言している。しかし、有罪となった。
亀次郎が狂信した”オシラサマ
オシラサマとは、東北地方から関東地方にかけて根強く残っている民間信仰の神の一種である。 30センチ程度の主に桑の木の棒二対からなっていて、突端に男女や馬の顔を彫刻したり、墨で 書いたりしたものだ。これに”オセンタク”という布片を着せている。
もともとは養蚕の神様で、 柳田國男は『遠野物語』の中で、お姫様と馬の悲しい恋の逸話をオシ ラサマの由来として語っている。そんなところから、オシラサマ信仰の厚い地域では、よく馬の 像を見かけることがある。旧丁村ことにK杉周辺では今も数多くの馬の像を見ることができる。 祭日になると、イタコがこの一対のオシラサマを「アソバセル」と称して、両手に持って打ち振 りながら祭文を語る。この時、時にはオシラサマで頭をたたいて、身体の病を打ち払うことがあ る。そこで信仰心が狂信的に凝り固まると、病を打ち払おうとして、つい強く殴打してしてしま い、事件化することがある。
蚕を育てる際、最も大切な蚕から繭を吐き出させる期間については、様々なタブーがあった。こ ま に家内の和合、夫婦の密接な協力が最も必要とされ、そこから万物創造の神である”歓喜天"を 祈念する信仰があらわれた――これがオシラサマである。この“歓喜天”とは真言宗の秘仏で、その姿態はエロ・グロ取り混ぜ た刺激的なもので、戦前は一般公開されることはほとんどないほど だった。 オシラサマが男女一対なのも、夫婦和合の性的な象徴を意 味しているのかもしれない。
津軽地域のオシラサマ信仰の頂点は、弘前市の久渡寺であるが、こ の久渡寺は“歓喜天〟を祀っている。 オシラサマのルーツを辿ると、思 いもよらぬエロティックな信仰の姿が見えてくるかもしれない。
オシラサマは時々信者にありがたいお告げを授けてくれることが ある。イタコやゴミソなどの巫女的な存在は、そんなお告げを人々 に伝聞する役目を持つ。しかし、時にはオシラサマは直に人間にお 告げを与えることがある。狂信的な信仰心の持ち主が、夢などで過激なお告げの声を聞いてしま ったとき、今回のような悲劇が起きてしまうようである。
「憑き物は医者に見せても治らない」 20歳女性の怪死事件
オシラサマ信仰の厚いT村では、周期的にオシラサマのお告げによる殺人などの事件が発生していた。
古くは昭和11年8月、T村の集落で20歳のリエという女性が怪死した。 右目の上、首、肩、両 腕、両手には大きな紫の斑点が無残に残っており、激しい殴打を受けたことを物語っていた。鑑 定したところ、肋骨はなんと11本も折れていたという。
犯人はなんと実の父親の紋八(4)だった。 同じ家の隣室にはイシ (4)という加持祈祷を行う“神様”が住んでいた。イシには“神様”が悪い ていて、加持祈祷を行い、周辺の人々は、みなイシの信者だった。
リエは一度隣のA村へ嫁いで子供を一人産んだものの、5年ほど前に離縁されて実家に戻されてしまっていた。事件の10日ほど前、リエに憑 き物が憑いたという。半狂乱になって、あたりをさまよい歩き、自殺未遂を繰り返し始めた。
リエの家族は「憑き物は医者に見せても治らない」と思い、隣の“神様” に見せた。 はじめは、家にあった30センチほどの一対の”オシラサマ”の 頭をリエにくっつけて、さすっていたが、効き目がない。リエは「堰へは ねて死ぬ〜」とうめき続けた。
イシは祈祷しながら紋八に向かって「頭では効き目がないから、オシラ サマの足でうんと痛いように殴ってやれ。 でないと、憑き物は離れん!」
と指示した。八は、イシの言うことを盲信し、ひたすら言うとおりに娘のリエを殴打した。 リ エは「グエッ」 「ギャッ」などと蛙がつぶれるような苦痛のうめき声をあげたという。
イシはさらに声を荒げて紋八に指示を出した。 「まだ脈があるか!!わきの下に手をやってみろ! 脈があるうちは狐が離れんからな! うんと殴れいっ!!」
紋八はついに息の絶えるまで、実の娘を堅い桑の木片(オシラサマ)で殴り続けたのであった。 イシは、結局、精神病と診断された。紋八は、イシの指示通りに動いただけとして、情状酌量が認められ、業務上過失致死の懲役2年、執行猶予3年の温情判決が下された。
狂信した男が起した「猫いらず」殺人未遂事件
K杉の事件の直後には、連鎖的にオシラサマ信仰が関係したと思われる血なまぐさい事件が周 辺で続発した。個々の事件には、もちろんつながりも、連続性もない。しかし、どう考えてもオシ ラサマがらみの連鎖反応で、まるで玉突き衝突のように連発した事件であったことは間違いなか った。そのうちの一つは、丁村と昔から深いつながりがある、すぐ隣の村で発生した「オシラサ殺人未遂事件」である。 昭和22年、村に住む山下幸雄(3)は勤め先の製氷会社の同僚に対するオシラサマからのお告げを聞いた。
「会社の上司を殺せ」
熱心なオシラサマ信者の幸雄は言うとおりにすることにした。 猫いらず(殺鼠剤)を上司の飲み 物に混ぜた。幸いこの上司は味の異変に気づいたのか、猫いらずをほとんど飲まなかった。そこ で事件が発覚したのである。
事件直後、幸雄は会社の衛生管理者の人間に「犯人は外部だ」と電話を入れた。 そして、犯人を示す証拠も見つからず事件は迷宮入りの気配が漂ってきた頃、幸雄は突然、「自分が犯人だ」と警察に自首してきた。幸雄は自分の犯行について、次のように述べたという。
「猫いらずを入れたのは自分だが、どうして入れたのかは自分でもわ からない。 オシラサマがそんな馬鹿な真似をさせるわけないから、き っと荒神さまでも取り憑いて、そうさせたのではないか」
自分から名乗り出たことについては、その方が罪が軽くすむと考え たからだそうだ。 猫いらずを入れた上司の元へも謝罪に出かけていた。 事件直後オシラサマとの関わりについて、幸雄はこう話している。
「1歳の時に肋膜を患ってからオシラサマを授かった。今ではオシラ やおろず サマ以外に”朝日さま”“夕日さま”“妙見さま”などの八百万の神を拝ん でいる。オシラサマ。からは自首する前に「ほんのちょっとしたことで苦労しているが、春になれば楽な仕事を世話してやる」というお告げがあったので、一切を神様に まかせて安心している」
幸雄は精神鑑定も受けた。しかし、精神に異常な点はないという判断をされて、殺人未遂で起 訴されたという。
これらの事件のほかにも、岩木山(オシラサマ信仰の中心の一つ)のお告げで、子供2人を実の 母親が惨殺。 オシラサマのお告げに従って、2歳の愛娘の首を締めて殺した母親など、様々な事 件が発生している。
実は青森県H市S村で発生した8人殺しなども、T村のオシラサマ殺人をきっかけに発生した のではないかと言われたことがある。
なんと8人殺しが起きた集落の隣の集落では、8人殺しの発生時期とほぼ同じ昭和20年初頭に オシラサマのお告げによる肉親殺人が発生している。
T村のK杉で起きたオシラサマ殺人事件が、いったいどれだけの事件を連鎖的に引き起こした のかという可能性を考えると、数が多すぎて、とても簡単には検証しきれないのだ。おそらく2 ケタに及ぶ殺人、傷害、窃盗事件が不連続的に発生したのは間違いないといえよう。
さて、冒頭の丁村K杉の事件の話に戻ろう。 K杉は、かつてはもっと多くの家々で栄えていたものの、事件の発生した時は、3軒の農家しかなかった。
事件はそのうちの1軒で発生したわけで、当主が犯人となった肉親殺人ゆえに、その家は消滅 する。そして、残り2軒の家も、ほどなくK杉の地を去った。
集落は事件をきっかけに数年で消滅してしまった。
現在のK杉の集落の跡を訪ねてみた。 K杉の周囲は、ゴルフ場と産業廃棄物の処理場で囲まれていた。しかし、集落を囲むように林 立していた杉の木立は今も健在だった。
津軽におけるオシラサマ信仰の象徴・岩木山。 オシラサマ信仰については、 今だその全貌が謎に包まれている
集落は今はない。しかし、そこはちょっとした広場となっており、農業関係のNPOの事務所の古めかしい建物が建っていた。
車道から村に入る入り口あたりに小さな鳥居を見つけた。よく鳥居の下 を見ると、石の御神体が祀られていた。彫ってある銘をみると、すべてK 杉にかつて根を下ろしていた神一族の方々の名が刻んであった。
ここはK杉の鎮守の杜だったわけだ。わずかにK杉の名残を残すのは、 この鳥居と小さな御神体だけだった。しかし、この御神体は放棄されてい るわけではなく、最近も誰かが来て、きれいに掃除していったようだった。
K杉で端を発したオシラサマ絡みの連鎖して発生した「不連続怪奇事件」 の波は、はたしてもう終息したのであろうか。それとも・・・・・・。