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尾崎豊 今も燻る死の真相


尾崎豊が覚醒剤による偽装殺人の犠牲になったのではないかという疑惑が、今なお燻り続けています。彼の怪死からすでに20年以上が経過し、もし彼が何者かによって殺害されたのだとすれば、その殺人事件の公訴時効は2007年4月25日午前0時をもって成立したことになります。

この衝撃的な疑惑を世に問うたのは、ジャーナリストの長島雄である氏でした。1995年7月に出版された彼の著書『尾崎豊 覚醒剤偽装殺人疑惑』は、尾崎の死の真相究明に乗り出し、妻であった繁美夫人と真っ向から対立する姿勢を示したものです。
ことの発端は、尾崎の父・健一氏が三回忌に向けて上梓した著書『親としての少年時代』の前書きに寄せたメッセージでした。長島氏は語ります。「そこには、ジャンキーの話が書かれていました。致死量の覚醒剤を打たれて男が殺されるのですが、彼がジャンキーだったために事件は迷宮入りしそうになるという、映画『ダーティハリー』のような内容でした。それを見て、父親はまだ息子の死に納得していないのだろうと感じ、実際に会って話を聞いてみたのです。すると、『もしかしたら消されたんじゃないか』と。そこから、尾崎の死の前後を調べ始めました」。

長島氏の長い戦いはここから始まりました。関係者への取材を進めるにつれ、「尾崎は殺されたのではないか」という疑念は、いつしか確信へと変わっていったといいます。彼は著書の中で、「確かに尾崎はかつて覚醒剤常習者だったから、覚醒剤で死んだと処理されても不自然ではなかった。だがしかし、尾崎の死は事情が違った。実は、巧妙に仕組まれた覚醒剤による偽装殺人という完全犯罪を狙った可能性が出てきたのだ」と記しています。

長島氏は『週刊宝石』や『夕刊フジ』などでの連載を通して疑惑を追及し、尾崎他殺説を展開しました。さらに、テレビ朝日と連携して取材を進める中で、ある人物から衝撃的な証言を入手します。「奥さん(繁美夫人)が『主人を殺してくれ』と暴力団関係者に依頼し、依頼されたという人物のインタビューにも成功したんです。映像もあります。それをテレビ朝日で報道しようとしたのですが、情報が奥さん側に漏れ、放送前に突然5000万円の民事訴訟を起こされたのです」。

この出来事をきっかけに始まったのが、8年にも及んだ、いわゆる「尾崎裁判」です。繁美夫人側は、『週刊文春』の誌上で「血染めの遺書」の存在を主張し、自殺説を展開。長島氏と真っ向から対立しました。しかし、警察は遺書の存在を否定し、繁美夫人が主張した自殺説の根拠はあっけなく崩れ去りました。
「私は全ての真相を法廷の場で明らかにさせようと思い、本を書きました。これを読めば繁美夫人から刑事告訴されるだろうと予想し、彼女を法廷に引っ張り出そうと思ったわけです」。

裁判は長島氏の敗訴という形で終わりましたが、司法によって「尾崎の死因については不明であり、様々な疑念が残る」と認定されたことは、一つの光明であったに違いありません。さらに、長島氏の追及により、事件当初から2年あまり伏せられていた事実が明らかになりました。それは、尾崎の体内から致死量の2倍以上の覚醒剤が検出されたという事実であり、死因は当初発表された肺水腫ではなく、覚醒剤の多量摂取がもたらしたものであったということです。適切な処置さえ受けていれば、尾崎が死ぬことはなかったのです。

1992年4月25日未明、東京都足立区千住河原町の民家の軒先で、全裸の若い男性が発見されます。後にこの男性が尾崎豊であることが判明しますが、警察に保護された時、彼は自らの足で歩いて救急車に乗り込んだといいます。しかし、その時の彼は、背中に多数の擦り傷があり、右目にはどす黒い痣ができて大きく腫れ上がっているという、尋常ならざる状態でした。

救急車で白鬚橋病院へ搬送されたものの、ここで予想もしなかった事態が起こります。医師は設備の整った病院への転院を勧めましたが、駆けつけた繁美夫人は医師の再三の説得にもかかわらず、尾崎の転院を拒否し、自宅へ連れて帰ってしまったのです。自宅に戻った尾崎の容態は急変し、午前11時過ぎに日本医科大学付属病院に運ばれた時には、すでに心肺停止状態でした。そして午後0時6分、尾崎は帰らぬ人となりました。
長島氏はこの事件の最大のポイントを、民家の軒先で発見された後の処置の問題だと指摘します。「警察に保護され、病院に搬送されて適切な処置さえ受けていれば、尾崎は助かったんです。死ぬことはなかったんです」。
では、なぜ捜査は突然打ち切られたのでしょうか。尾崎の体内から覚醒剤という違法薬物が発見されたにもかかわらず、事件性が重視されなかったことにも謎が残ります。担当刑事は当初、殺人事件も視野に入れて捜査するつもりだったといいます。「あれだけの量の覚醒剤を飲ませるには、酒に混ぜるしかない。誰かに飲まされた可能性がある」と語っていたにもかかわらず、捜査は突然打ち切られました。

尾崎は亡くなる直前の4月24日、後楽園にオープンしたイタリアンレストランのオープニングパーティーに出席していました。その後、繁美夫人らとホテルへ移動し、そこでT氏と名乗る人物と偶然に遭遇します。長島氏は、このT氏が疑惑の人物であると指摘しています。一行はホテルで飲んだ後、芝浦の「王」という店に向かいました。もし尾崎が酒に混ぜられた覚醒剤を飲まされたとすれば、この「王」しか考えられないと長島氏は考えています。
「王」を出てから発見されるまでの数時間の空白に、一体何が起こったのでしょうか。背中の擦り傷と右目の痣は、この空白の時間に何者かによって暴行された痕跡だったのでしょうか。

長島氏はこう推測します。「尾崎に覚醒剤入りの酒を飲ませる。これが計画の第一段階。そして第二段階が、酒と覚醒剤でフラフラになった尾崎を亡き者にすること。しかし、ここで狂いが生じた。新聞配達の人間に、尾崎に暴行を加えている現場を見つかってしまったのかもしれない。暴行を加えていた人間は、尾崎を放置して逃げた。だから、あの様な姿で発見されたのです」。
そして、計画は未遂に終わった。そう考えると、やはり搬送先の病院での出来事が、事件の最大のキーポイントとなってくるのです。

尾崎はなぜ殺されなければならなかったのか。長島氏は、死の直前に尾崎が準備していたアルバム『放熱への証』のツアーに、その原因があったと指摘します。コンサートのチケット予約は20万枚、アルバムの予約もすでに10万枚入っており、15億円もの収益が見込まれていました。この莫大な収益が、悲劇の原因になったのではないかと考えられています。
当時、尾崎と繁美夫人の関係は破綻しており、尾崎は15億円の収益から慰謝料を払い、離婚するつもりだったといいます。このタイミングで尾崎が亡くなったことは、一部の利害関係者にとって極めて都合の良い状況を生み出しました。事実、彼らが予想したように、尾崎の突然の死は、ある種の伝説を生み出し、残された作品の価値を数倍に高める結果となったのです。
26歳での急逝。尾崎は文字通り「伝説」となりました。しかしそれは、謀略によって作り上げられた「偽の伝説」ではなかったのでしょうか。

尾崎の怪死から18年後、テレビCMで流れた彼の名曲『I LOVE YOU』を聴いて、はっとしたファンも多かったでしょう。歌っていたのは、息子の尾崎裕哉でした。父親とそっくりの歌声に、多くのファンは感動の声をあげ、尾崎豊の人気が今なお健在であることを印象付けました。CMで流れる「見ていてください、お父さん」という言葉。親子の絆の強さを物語るフレーズですが、息子・裕哉は、父親の疑惑に濡れた死をどのように認識しているのでしょうか。彼の背負う十字架は、あまりにも重いと思わざるを得ません。天国にいる父・尾崎豊は、そんな息子をどのような思いで見つめているのでしょうか。

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