歴史の闇 都市伝説

幕末の英雄 坂本龍馬は本当にフリーメイソンだったのか?


坂本龍馬は本当にフリーメイソンだったのでしょうか。
2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の人気に便乗して、坂本龍馬関連の書籍が書店の店頭を賑わせていたことは記憶に新しいでしょう。国民的英雄である龍馬に関しては、奇説・珍説が数多く存在しますが、中でも最も奇抜な説といえるのが「龍馬=フリーメイソン説」ではないでしょうか。改めてこの珍説を検証してみましょう。
龍馬とフリーメイソンの関係を論じた本としては、加治将一氏の『石の扉 フリーメーソンで読み解く世界』や『操られた龍馬―明治維新と米国諜報部、そしてフリーメーソン』といった一連の著作のほか、鬼塚五十一氏の『坂本龍馬とフリーメーソン―明治維新を創り出した英雄は秘密結社のエージェントだった!?』などがあります。
月刊オカルト雑誌『ムー』でも、2010年4月号で「坂本龍馬とフリーメーソン」という特集を組み、「龍馬=メイソン説」を展開しています。その記事の中で、加治将一氏は、龍馬がグラバーの指導のもとフリーメイソンのメンバーになっていたという可能性を示唆しています。
しかし、龍馬がフリーメイソンに加入していた可能性など、本当にあったのでしょうか。結論から言えば、それははっきり言ってゼロです。

龍馬がメイソンっぽく思えるのは、彼自身が剣術の使い手であったにもかかわらず、懐にはスミス&ウェッソンのⅡアーミー型という拳銃を忍ばせていたり、草鞋の代わりにブーツを履いていたり、妻のお龍を連れて日本初のハネムーンとされる新婚旅行をしたりと、時代を超えた行動力や発想力がメイソン譲りのような気がするからでしょう。

龍馬がメイソンであり得ない理由については、これまでも何度か書いていますが、ここで改めて簡単に説明しておきたいと思います。まず、当時のメイソンに入会するためには、英語を話し、理解できることが必須条件でした。なぜなら、長々しいメイソンの儀式はすべて英語で行われ、これを突破できなければメイソンにはなれなかったからです。
 これは日本人にとっては大変なことであり、第二次世界大戦後になってようやく、儀式を日本語に翻訳して行うロッジも現れました。しかし、江戸時代にそんな気の利いたものが存在したはずもありません。龍馬が英語を習っていたという形跡はあるものの、彼が英語を流暢に話したなどということは聞いたことがありません。

また、龍馬をメイソンに導いた人物は、自身もメイソンであったとされる貿易商のトーマス・グラバーだとされています。しかし、肝心のこのグラバーがメイソンであったという証拠が何一つないのです。彼がメイソンに加入したという記録は残っておらず、メイソンであったと書かれた当時の資料すら存在しません。


長崎【グラバー園の門柱】の真相
 そこで、この説を唱える人々が唯一の証拠としていつも持ち出すのが、長崎のグラバー邸の前にある、メイソンの紋章が入った門柱です。
 確かにグラバー園の中には、コンパスと定規というメイソンのマークが入った門柱が立っています。しかし、この門柱はグラバーとは何の関係もないのです。これは昭和の時代になってから、ある長崎市民が自宅の前に立っていたものだとして寄贈した門柱であり、それをグラバー園内に適当に設置しておいただけの代物に過ぎません。このあたりの由来については、実際にグラバー園に行ってみれば、門柱の横にちゃんとそう書かれているのですぐにわかります。

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さらに、加治氏の『操られた龍馬』では、グラバーの導きによって龍馬は上海や英国まで足を運んだとされています。「イギリス、上海、どこに行ったにせよ、グラバーと会ったあたりから、龍馬は田舎侍から脱却し、行動に明らかな変化が現れている。何らかの力の丹の底に宿ったような、自信の漲り方である」と、あたかも龍馬の海外渡航が事実であるかのように書かれています。しかし、通常の日本史では龍馬の海外渡航など、もちろん認められていません。
そこで証拠として持ち出されてくるのが、『旧臣列伝』という記録です。そこには「同(慶応三)年某月、藩主の命を受け、土佐坂本龍馬と共に清国上海に航し、外国の状況を審(つまびらか)にす」と書かれているというのです。これがもし事実なら、龍馬が海外にまで足を伸ばしていた動かぬ証拠と言えるでしょう。しかし、それはあり得ないのです。
実は、ここに書かれている慶応3年のその前年に、龍馬と共に亀山社中を創業した同志が、グラバーに頼み込んで本当に英国行きを企てたという事件がありました。これは、龍馬の右腕とまで言われた近藤長次郎という人物でした。しかし、いざ英国に出発するという時に逆風となって船が出せず、風待ちをしている時に、近藤は他の社中の同志に見つかってしまったのです。
実は近藤は、他の仲間に黙ったまま抜け駆けで海外渡航をしようとしていました。この「黙って抜け駆け」という行為が大きな問題とされ、周りの同志から強い非難を浴びた近藤は、自身の行動を深く恥じ、その場で切腹して果ててしまったのです。グラバーには後に近藤の太刀が形見として渡されているので、グラバー自身も何があったのかは十分わかっていたはずです。最も信頼していた同志を、信義の問題で亡くした翌年に、今度は龍馬本人が全く同様に抜け駆けで海外渡航を企てたなどということがあり得るでしょうか。

それに、慶応3年といえば、龍馬が暗殺された晩年にあたります。この時、龍馬は大政奉還の実現のために全国をまさに走り回っており、日本国内における彼の足取りは詳細に判明しています。慶応3年の龍馬には、半月ほどの空白期間しかなく、隠れて海外に行けるような余裕など全くありませんでした。

また、元治元年(1864年)と慶応元年(1865年)にも、龍馬がどこに行っていたのか所在の判明していない時期があるため、この時に海外に渡っていたのだとも言われています。しかし、この時期も海外渡航していたので記録が残っていないわけではありません。当時、龍馬が身を寄せていた神戸海軍操練所が、幕府から危険分子の巣窟とみなされて解散させられ、軍艦奉行であった勝海舟も免職されてしまったのです。龍馬らの身に危険が及ぶことを危惧した勝は、龍馬たちを薩摩にかくまってくれるよう西郷隆盛に頼んでいました。つまり、危険が迫っていたので身を隠していただけであり、海外に出かけていたわけではないのです。
福山雅治さん扮する龍馬が、英国のロッジの中で暗い燭台に照らされながらメイソンの聖書にひざまずいたり、グラバーと秘密の握手を交わすシーンなどがあれば、私もぜひ見てみたいとは思いますが、それはやはり無理な話と言えるでしょう。

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