唯一の被爆国として、私たちは原爆の悲惨さ、凄惨さ、
恐ろしさを様々な場面で目にし、実感し、学んできた。
だが、もしかしたら、それは表層だけのことなのかもしれない。
なぜ日本に投下された原爆は2種類あったのか、
なぜ原爆投下は避けられなかったのか………………
こうした
疑問に正史は明確な答えを与えてくれない。
その理由
は本稿を読んで頂ければ、ある程度は水解するはずだ。
そして、私たちは知るだろう、原爆に纏わる謎が
いまだ多く存在していることを・・・・・・
「戦争』という観点では見えない、と戦前の日米対立
プロレス』とする見立て
原爆に関する戦史評論はいまでも次々と出されており、テレビでも8月になると原爆をテーマとした番組が組まれる。知識として参考になるものも多いが、重要なのは、それらで何が説明されたかよりも、何が説明されなかったかである。
私たちがいまだに知らされていないことは、 何なのか。戦争が国家間の争いであることは間違いないが、物量にまさるアメリカが勝って、 負けた日本が国土を焼かれて疲弊しつくしたのかといえば、決してそうではない。日本の統治組織はほとんど無傷で継続し、敗戦後すみやかにアメリカと共同で原爆被害調査に乗り出している。1945年8月15日の停戦命令などとは関係なしに、日本は来たるべき。原子力時代に向けて産軍学を挙げての軍事活動に邁進していた。当時の厚生省は「原子爆弾傷害調査計画」という文書のなかで、原漿の被害に関する研究が人類の利益になると位置づけ、「この好機を失うべきではない」と述べている。原爆投下は「好機」の到来であるというのが日本政府の明確な立場だった。文書にはすでに今日の原子力時代』を想定した業い文句が並べられ、まるで戦争中からアメリカと事前協議を重ねていたかのように日米の歩調は合っていたこの意味は何かというと、第2次世界大戦の大きな目的として、原子力エネルギーの実用化に向けた世界各国の共同研究』があったということだ。将来予想される巨大なエネルギー利権をリードするために、核兵器の開発に各国がしのぎを削り、アメリカがその一番乗りを果たしたわけだが、膨大な生態実験のデータを提供した日本の協力がなければプロジェクトは前に進まなかった。つまり日本はアメリカとともに、共同研究の勝者であって、 敗北は、戦争』という観点からの現象にすぎない。戦争は手段で目的は、原子力利権の分配。 だったという観点でいえば、日本とアメリカは核開発の役割分担に成功したのである。その点で日米の利害は初めから一致していたと考えれば、戦後にすみやかな共同作戦が行われたことにも矛盾はない。だが通常はそう考えずに。戦争」という側面だけがクローズ・アップされる。というより、そこしか見せないようにしているのだ。
戦前の日米対立がプロレスでいう事前のアングルであって、ブック通りに日本の敗戦に至ったという説明は、通常の戦史では受け入れられないものである。仮にこの説明を考慮したとしても、原爆投下はブック破りと見られてきた経緯がある。つまり、日本にとって広島・ 長崎に原爆が落とされたのは寝耳に水だったというのが従来の説だが、日本が事前に原爆情報を察知していたことは、すでにNHKでも報じられたことである。後述するように、参謀本部の対処次第で原爆の被害は軽減できた。 しかし、それをしなかった。なぜしなかったのかという記録は残されていないが、原爆被害が軽減されると戦後の日米共同研究にとってい方がデータは集まりやすいに決まっているからだ。その点からすれば原爆投下はブック通りだった節もある
日本が傍受していた「原爆投下」のサイン
昨年8月にNHKが放映した 「原爆投下活かされなかった極屋情報」という番組でも、最重要機密が明かされたわけではない。しかし、しかし、 パッケージ化された戦史物語からはみ出た部分を扱ったという意味で、貴重な調査報道だったのは確かである。その内容は、帝国陸軍に中央特種情報部という秘密部隊があり、彼らは広島・長崎への原爆投下のサインを事前に察知していたというものだ。正確に言うと、アメリカの特煉任務機がテニアン島付近を飛んでいることを示すコールサインを傍受して、それが広島に向かっている状況も監視していた。 そして結果的に原爆を投下したことから、特殊任務機が原爆作戦であることが判明した
ここで重要なのは、長崎の原爆投下前にも同じコールサインを傍受していたことだ。陸軍中央特種情報部は、このサインを当然第二の原攻撃と見て、その旨を上層部に伝えている。 だが、参謀本部は九州の司令部に何も知らせず、長崎では警戒態勢を取ることができなかった。この内容は、テレビ番組より詳しい情報を盛り込んだ書籍が「原爆投下黙殺された極秘情報」というタイトルで刊行されている
1945年7月16日にアメリカがニューメキシコ州で史上初の核実験を行ったとき、その情報は「新兵器の実験が行われた」という形で日本の軍部もつかんでいた。当時陸軍大臣秘書官だった林三郎は「それが原爆であるとは誰も想像しなかった」と戦史に書いているが、 これは惚け方が過ぎている。旧軍人の回想で注意すべきは、本当のことを言っているとは限らないことである。むしろ当事者ほど真実を語らないことは、瀬島龍三が生前にどれだけ本当のことを話したか考えてみればわかるだろう。大本営陸軍部参謀だった堀栄三も、テニアン島を飛び立った特殊任務機が原爆搭載機とは考えなかったと証言しているが、これも不審である。亡くなる前のインタビューで堀は次のように述べている
「そのときに、もしも私たちの頭の隣に、原爆のゲの字でもインプットしてあったら、私たちは、とうに、原爆が来ているということがわかったんですけど」(前掲NHK書籍より)。
日本の軍部は、アメリカの原爆開発計画が進んでいることを、少なくとも1943年の時点で把握していた。つまりアメリカが新しい実験を行ったと聞けば、それが原爆であると確信するには至らずとも、その可能性があることは予測できたはずである
NHKの調査報道もこの点の疑問から進めれてていくのだが、軍部がアメリカの原爆発を認めたがらなかった理由として、NHK の番組制作者は、軍部の独善的な体質に原因があったことを指摘している。都合の悪い情報からは目を背ける傾向があったというのだが、本質的な理由は別にあったと考えるべきだろう。なぜなら軍の上層部は、広島に投下された爆弾が原爆であると判明してからも、 次なる原爆攻撃のサインを無視したからである。これは都合の悪いことから目を逸らすと いう次元の問題ではない。アメリカの『新兵器が原爆だとわかる前も、わかった後も、とにかく軍部は同じように何もしなかった。ただ黙って新兵器を使わせたのだ。これはいったい何を意味するのか。
警報が出されなかった広島・長崎は完全な無防備状態だった
広島は軍都だったにもかかわらず、原爆投下まではほとんど空襲を受けなかった。これは不自然なことなので、1945年8月の段階では、もう空襲があるに違いないという緊張感が高まっていた。そこで市内の建物疎開を行うため、多くの人が外で作業をしているさなかに原爆が落とされた。それまでは敵機が上空に侵入すると、たとえ1機でも警戒警報と空襲警報が発令されたが、原爆投下の朝にはなぜか警報が発令されなかった。
警報は各地の軍指令部が発令するが、その指示は参謀本部第2部から送られる。8月6 日の朝、陸軍中央特種情報部は、テニアン島から日本に向かう特殊任務機のコールサイン。 を監視し、その情報を参謀本部第2部に送っていた。そして参謀本部の堀栄三少佐は、特殊任務機のターゲットが広島であると察知し、 その旨を上層部に伝えた。この時点では、特殊任務機が原爆作戦機であることまではわからなかったが、敵機が広島に接近していることは明らかだった。しかし、広島の司令部に警戒警報の指示は出されなかった。
堀栄三少佐は、広島に投下された爆弾が原爆であることを、その日の夕方には知ったという。正式な断定は8月10日になるが、参謀本部ではすみやかに原爆と判断し、8日に特種情報部の任務遂行を表彰している。そして9日にも先日と同じ特殊任務機のコールサインを傍受したため、陸海軍の情報通信部隊はこれを再度の原爆攻撃と判断し、上層部にその旨を伝えている。だが、なぜかこの情報も九州の司令部には伝達されず、長崎で空襲警報は発令されなかった。また長崎周辺の航空隊にも出撃命令は出されていない
原爆投下のときに限って、なぜか広島と長崎は、完全に無防備な状態に置かれていた。 とりわけ長崎の場合は、すでに特殊任務機の正体がわかっていたにもかかわらず、通信傍受の現場から発せられたサインを参謀本部のドップが遮断したのである。
このときの参謀本部第2部長は有末清三である。そして参謀総長は梅津美治郎、参謀次授は河辺虎四郎である。梅津は敗戦後にA級戦犯になっているが、それはソ運の要求によるもので、マッカーサーの指令では戦犯から外されていた。梅津は東京裁判で終身刑と決まった後、何も語らないまま獄中で病死した。そして河辺虎四郎は、戦犯を免れてGHQの手先となり、戦後に特務機関活動を行った。また有末清三は、敗戦前からアメリカと内通していたと言われる人物である。戦後にGHQ と日本政府の連絡係を務めた。
こういうイワクつきの連中が、参謀本部で情報伝達のトップにいたのだ。そのことが何を想像させるかは、NHKの番組では一切話られない。これはNHKの限界というより、歴史研究の限界である。真実は墓場まで持っていかれたのだ。梅津も河辺も有末も、原爆投下時のコールサインについては完全黙秘したまま世を去った。本当の機密というのはそういうものだろう。すでに敗戦を見越した参謀本部の上層部が、アメリカにすり寄って原爆被害の拡大に全面協力したとするなら、本当のことは口が裂けても言えないはずだ。真実は闇に乗られ、軍の上層部は清報の使い方を知らない馬継だったという話で片付けられる。学者や評論家の戦史記述もそのあたりで手を打つことになり、結果として日本は情報戦で敗れたというのが定説となる。しかし、問題はこれだけではない
「日本製原爆」のタブー日本の原爆開発は 「外地」で進められた
原様に関して戦史研究がそろって口を感むのは、日本の原爆研究が。軍財招合。すなわち軍と財閥による外地を舞台にした一大プロジェクトだったことである。 これをいまだに京都帝大と理化学研究所の仁科芳雄耐究室のエピソードだけで語るのは、戸山ヶ原の陸軍軍医学校の話だけをして大陸での731部隊の活動に触れないようなものである。
NHKの取材班は、確かに果敢に謎に挑んでいるが、日本の原始研究については凡百の戦史本と同じことしか書いていない。 つまり日本に原爆開発の能力はなかったという結論だ。陸軍が原爆研究に投じた資金は、多くても2000万円(500万ドル)とされている。アメリカのマンハッタン計画に費やされた120億ドルとは比べ物にならないというのだが、日本の原爆研究は産軍学を挙げて行ったので、陸軍の表向きの費用だけを額面どおりに受け止めてマンハッタン計画と比較しても意味がない戦時の日本の新興財閥は。外地」にいくつもの化学コンビナートを持っていた。日空コンツエルンの北朝鮮興南工場や、日産コンツェルンの満州重工業開発などである。理化学研究所も単なる研究機関ではなく、戦前は社の企業を傘下に収め、121ヶ所の工場を持つ大財閥だった。これは三井・三菱・住友の協力を得て規模を拡大したもので、北朝鮮のウラン採掘が有望なために朝鮮理研鉱業という会社も設立していた。これらの産業活動を抜きにして、いつまでも仁科研究室の話でお茶を濁していても仕方がない。
日本軍が原爆研究の拠点を本土から北朝鮮の寿南に移したという話は、1996年に時事通信が伝えているので、まったく知られていない話ではない。同じく時事通信が1999年に伝えたところによると、終戦直前の8月 12日に、北朝鮮の輿南沖で原爆のようなキノコ盤が上がったという。アメリカは日本が核関発を進めていたと見て、朝鮮戦争のときに興南の化学コンビナートを破壊したというが、これが事実なら、戦後も原爆工場施設は生きていたことになる。そこで史実をふりかえると、 ソ連の満州侵攻は8月9日、そして北朝鮮にソ連軍が上陸したのが12日である。仮に興南の工場に原爆があったとしても、核実験の余裕があったかどうかは疑問である。何の爆発だったのかは謎と言うしかないのだが、いずれ
にしても原爆研究データはソ連に流れただろうし、原爆開発に携わった日本人や朝鮮人はソ連に連れていかれただろう。ソ連が原爆開発に成功したのは戦後4年目の1949年だが、これが事実上,日ソ共同開発」だったという疑惑をアメリカが抱いたのはそのためである
8月12日に傍受された
「3度目のコールサイン」
次なる原爆投下目標は「東京」だった・・・?
日本の敗戦決定後に、関東軍は「長崎の不発原子爆弾をソ連大使館に搬入せよ」という謎の電報を打っている。正確な文面は「原子爆弾保管件 長崎ヨリ東京ニ持帰リタル不発原子爆弾速カニ「ソ」聯大使館内二搬入保管シオカレ度」というものだ。電文を書いたのは大本営参謀の朝枝繁春だが、瀬島龍三の名前で 8月27日に打電された。宛て名は参謀次長の河辺虎四郎。前述した原爆搭載機のコールサインを黙殺した参謀本部のナンバー2だ。共同通信社の『沈黙のファイル」によると、朝枝は、不発原子爆弾」をネタにしてソ連との極秘交渉に及んだという。実はアメリカが長崎に 2発の原爆を投下しており、そのうちの1発が不発だったので、これをソ連に渡してアメリカを牽制するのがねらいだったが、後にこの不発原爆はラジオゾンデの間違いだったことになっている
私はこのエピソードの。読み方』をずっと考えているのだが、仮にアメリカが3発の原爆を持っていたとしても、長崎だけで2発も使うだろうか。また商品の名前で出された電文はロシアの中央公文書館にあったものだが、改竄された文ぎかもしれないし、この電文だけでは意味が解けない代物なのかもしれない。つまり「興南」の文字が抜けているのだ。アメリかが落とした不発原爆と見せかけて、実は興南で完成させた原爆を長崎に運んだ疑いがある。本当にアメリカによる。原爆の不発弾。 が発見されたなら、暴発のリスクを考えれば、 そう簡単に運べるとは思えない。したがって、 もし、不発原爆があったというなら、もともと。こちらが管理していたものと考える方が自然である。
アメリカが最も恐れたのは、ナチスの原爆開発もさることながら、日本が先に原爆を開発することだっただろう。欧米資本にしてみれば、黄色人種が原子力利権をリードするとだけは何としても避けたかったはずである。 ゆえにアメリカは日本の原爆研究の成果を歴史から抹消することにしたのだろう。戦後の日本も核兵器開発に邁進した過去は消したかったので異存はない。必然的にアメリカ、日本、そしてソ連も含めて、最も隠したかった
ポイントは、ほかならぬ興南の軍事施設の実態だろう。これを最高機密とする点において欧米と日本の利害は一致した。だからいまも北朝鮮は閉館的で秘密主義の国でないとまずいのだ
前掲のNHK書解は、当然のようにこの間題には触れていない。が、少しだけヒントが書いてある。長崎に原爆が投下された3日後に、 「次は東京に原爆が落とされる」という噂が広まった。このことを戦後になって雑誌で述べたのが時事通信初代代表の長谷川才次だったというのも意味深長だが、これは単なる噂ではなく、実際に陸海軍の諜報部隊が。3度目のコールサイン』をキャッチしていたのである。 広島・長崎の原爆投下時に傍受されたのと同じサインだった。そしてこの3度目の特殊任務機は、東京に向かっていたことから、さすがにこのときは警報が発令された。しかし、結局東京に原爆は落とされなかった。「何かの理由で帰還したのだろう」という曖昧な証言しか残されていないが、諜報部隊は特殊任務機のルートを監視していたので、その行方はもっと明確に把握したはずだ。つまり事実を公表していないものと思われる。
これは8月12日の出来事なので、興南沖でキノコ雲が上がったという日と一致する。特殊任務機は興南に向かったのだろうか。不発原爆の話を抜きにすれば、アメリカはこのときまだ3発目の原爆は持っていなかったというのが通説である。だとすればテニアン島から原爆を積んで飛んだのではなく、興南で完成していた原爆を取りに行ったとでもいうのだろうか。原爆問題の間は、相当に深いのである。
原爆投下時に傍受した同じサインをキャッチしたー 3度目のコールサインは結局、幻に終わったが、 このコールサインは何を示唆していたのだろうか ?