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天下に名高い「血に飢えた妖刀」 村正

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天下に名高い「血に飢えた妖刀」 村正

時は江戸時代。次郎左衛門という商人が吉原の花魁・八つ橋に入れあげるが、 衆の面前で嘲笑されたあげく手ひどく振られた。 恥をかかされた次郎左衛門は「籠 釣瓶」という刀で八つ橋を斬殺し、さらに周囲の人々も斬り殺していく。

実話をもとにしたとされるこの話は、「吉原百人切り」として講談や芝居の題材に なり、明治時代には歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」として上演された。

そして、この話に登場する「籠釣瓶」こそ、血に飢えた妖刀として名高い村正な のである。当時、村正の名は庶民にまで広まっており、無差別殺人を引き起こした 主人公の狂気を表現する小道具としては、格好の素材であった。

多くの武士が求めた、戦国時代の人気ブランド

 そもそも「村正」とは、固有の刀をさすものではない。戦国時代に伊勢桑名(現在 の三重県)を中心に活動した刀工の名であり、初代の千子から、三代 (七代説もある) 続いた村正一派の鍛えた刀は、すべて村正と呼ばれる。

この村正は刀身の刃紋が大きく波打ち、表裏がそろっているのが特徴である。同 じく日本刀の代表ともいえる正宗とくらべると、華やかさには欠ける が切れ味は抜群といわれ、多くの武士に求められた。

その切れ味は、村正の刃先を上流に向けて川に立てると、流れてきた木の葉が、 流れを止めることなく真っぷたつになった、という伝説を生みだしたほどだ。 有名なものに、初代の弟の作とされる「蜻蛉切」や三代目の作「妙法村正」などがあり、刀だけでなく槍や小刀も鍛えている。

なぜ「妖刀」と呼ばれるようになったのか

村正が妖刀と呼ばれるようになったのは、徳川家との因縁に由来する。 もともと徳川家は、三河(現在の愛知県)を本拠としていたが、まず、家康の祖 父・松平清康が、合戦中に村正を持った臣下に切りつけられ殺された。ついで、父 の松平広忠も、近臣の謀反により村正の脇差で暗殺される。

さらに、家康の嫡男であった信康が、織田信長から武田家との内通を疑われて自 害に追いこまれたとき、介錯に使われたのも村正であった。 

最愛の息子の命を奪ったのが村正であると知ったとき、家康は祖父と父のことを 思いだし、「今後、当家の差料に村正があったら即刻捨てるように」と布告した。 家康自身も、織田有楽斎(信長の弟)の子が持っていた村正の槍を検分中に指をけがしており、この布告によって村正は徳川家にとって忌むべき刀となった。当然な がら臣下も村正を持つことを控え、やがて各地の大名もそれにならった。

しかし、徳川家に敵対する者にとっては、村正は打倒徳川の象徴となる。大坂の 陣で家康を追いつめた真田幸村、幕府により領地を没収された福島正則、徳川幕府 初期に謀反を企んだ由井正雪などは、みな村正を帯刀していた。こうして、反徳川 勢が村正を好むことにより、徳川家と村正の相性はさらに悪くなっていく。

幕末になると、徳川打倒を誓う薩摩や長州の志士たちが、好んで村正を持つよう になった。あの西郷隆盛も、やはり村正を所持していたという。

また、こうした評判が庶民に広まっていく過程で、冒頭の物語のように村正にま つわる怪異譚が次々と生まれていった。いつしか、徳川家にだけ祟るはずの村正は、 持ち主を不幸にする呪われた刀との評を確立していく。

だが実際には、村正の妖刀伝説はほとんどが創作である。 村正の活躍した時代、 武士にとって切れ味のよい刀を求めるのは当然のことであった。多作であるため所 有する者も多く、徳川家に不幸が続いたのは偶然が重なっただけなのである。 ただ、真田や西郷といった、村正を所持して反徳川を掲げた者たちが、そろって 壮絶な最期を迎えているという事実も、偶然で片づけるには惜しい。

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